吉田K

98Y

ラカンの理論

精神分析の専門家でもあるラカンは、人間の世界の捉え方について非常にするどい理論を残している。

彼によれば、生まれたとき人間は自己によって自己を認識するのではなく、自己自身ではないもの(身体や他者のイメージ)に自己を同一化し、そこから疎外的に自己を作り上げる。このような自己理解のことをラカンは「L’Imaginaire」(想像界、または想像的なもの)と呼ぶ。このような自己理解の仕方は、同一化の対象への囚われ、つまりその像のイメージへのこだわりと自己取得の間に生じるずれに起因して、不安定な心理状態をもたらす。人間がそこから解放されるのは、言語を習得したときである。言語はそのものを指し示す機能とそのものを他のものと切り離す機能の2つの構造によって初めてものに意味をもたらし、すべてのものを他のものとの関係性の中で理解することを可能にする。しかしこれは同時に、言語の関係性に取り込めないものを切り捨ててしまうことも意味している。ラカンはそのことを「言葉はものの殺害者である」と表現している。

このように、人間は言語によって世界の理解を安定させるのと引き替えに、ものをものそのもの(ほかのものとの関係性や言葉の持つ意味の型にはまらないそのままのかたち)として認識することが不可能になる。ここで第二のずれが生じる。ラカンはこの言語の構造に基づく自己理解のことを「Le Symbolique」(象徴界または象徴的なもの)と呼ぶ。

このように、人間はまず想像界で、次に象徴界で自己を理解するようになるが、これは人間が自己やものをそれだけによって直接把握するということができないことを表している。人間は他者なしに自己やものを理解することはできないのである。一見、この媒介の必要性から再び理解のずれが生じ、そのずれはとてつもなく大きなものになるように思えるが、ここにラカンの理論の革新的な部分が詰まっている。

そもそも理解するべき自己やものとは、知覚されたイメージや言語を介して理解することができる自己ではなく自己そのものであり、或いは象徴界には取り込めないものそのものである。ラカンはその「そのもの」のことを「不可能な対象」「欲望のあり得ない対象」と呼び、この理解に無意識の構造と自我との関係を解明する精神分析の仕事のすべてが懸かっているという。

そのもの自体は、言語化によって消滅するわけではない。それは、言語がものを定義する際に生まれる余剰の部分であり、かつその余剰の部分がそのものをそのものたらしめている。ラカンはこうした一種の逆転構造に基づく理解を「Le Réel」(現実界または現実的なもの)と呼ぶ。そのものを認知することは、言語によって表現されていないそのものを言語の「ものの余剰以外の部分=意味されている部分のみ」によって逆に浮き彫りにすることであり、それによって、言語の定義の妥当性を保証するそのものが後から認知される。

つまり、3つの界をまたぐことによって発生するそのものと理解したものとのずれ自体が、現実界を認知することができない人間にとってそのものを認知する鍵になっているということが、ラカンの世界の捉え方に関する考えなのである。ラカンの理論はこの先も続き人間の自我について説明しているが、ここまでの部分について一度私の考察も交え論じたい。

ラカンの理論に従えば、言葉で説明している以上その本質を言い表すことはできないものの、例えば人間の自我である「わたし」は言語化された「そのものではないもの」であり、「わたし」の正体は大脳の生理学的構造や機能(=現実界)から想像界象徴界を媒介として作りあげられたものである。そしてさらに、自我がそのような仕組みで成り立っているのであれば、当然感情も同じ仕組みで成り立っているということができるのではないだろうか?

私は常々、自分の感情が自分の思考(=自我)によって認知されるときに、その感情が何であるか判断できなかったり自分の知っている言葉に当てはめても納得がいかなかったりする経験をしてきた。しかしラカンの理論に当てはめればこの理由は容易に説明することができる。つまるところ喜怒哀楽などの感情は、人間が膨大な組み合わせのあるホルモンの分泌(=現象界)をいくつかパターン分けし名前をつけたもの(=象徴界)に過ぎないのであって、象徴界を介してそのものをとらえようとしていたから違和感(=ずれ)が生じていたのだと考察することができる。

さて、ラカンはこの理論を人間の自我に当てはめて興味深い結論を導いている。脳の神経回路やその活動によって想像界象徴界を介し作り上げられた「自我=わたし」は現象界を認知できないため自らを「そのものではないもの」であると認識することができず、即ち「そのもの」として認識するようになるというのである。確かにこの文章を書いている私も自分がそのものではないものであるとは思えない。「わたし」が本当は何なのかなど考え始めたら気がくるってしまいそうである。自我というものが様々な「ずれ」を抱えつつこの「ずれ」を覆いかくす形で形成されている以上、わたしたちの精神の正常性の背後には、常にこの「ずれ」が再び顕在化する可能性、「狂気」が控えているのである。