吉田K

98Y

表象と実態のずれ

ポストフォーディズム社会では実態が常に評価される。その評価は監査され、名声を広める(または落とす)のに用いられる。よって本質的に目標を果たすために行動するのではなく、目標を果たしているように表象(アピール)することを目標とするようになる。この連関は個人においても会社においても公的機関においても同様である。彼らは全員、表象と実態が乖離していることは知っているが、皆(想像上の他人)は知らないはずであるから言ってはならない、と了解している。

よって他人が知らないはずであるという前提が崩れた時(具体的には、誰かが公の場でそれを口に出した時など)、その実態なき表象は一気に崩壊する(実は社会主義の崩壊もまさにこのような流れで起こったものである)。

A・コント

コントは社会学の祖とされている人物である。

彼は1789年のフランス革命と、ヨーロッパにおける産業革命を社会変動・伝統の崩壊の発端とみなし、宗教によって人間の行動を説明することには限界があると考え、代わりにそれを科学で説明しようとした[実証哲学講義]。これが社会学(当時は社会物理学)の始まりであり、社会学は社会静学(社会構造論)、社会動学(社会変動論)に分けられる。

 

 

ライシテという「正義」

フランスではライシテと呼ばれる政教分離主義が採用されている。これによって公の場では十字架を飾るなどの行為は禁止される。

これは19世紀にフランスの支配者であったカトリックから独立した政治・文化を確立しようと当時のフランス市民が勝ち取った、宗教に支配されない権利だ。フランスではカトリックに代わりライシテが包括的な価値体系として共有されている。

 

現代のフランスにおいても、ライシテは重要なものとして国民に浸透している。

記憶に新しいのは、イスラームに対して政教分離を守ることを求めるために行われた大規模デモである。しかしイスラームは厳格な政教一致の宗教であり、その戒律を破ることを求めたライシテの運動には、社会の少数派に対する弾圧の側面もある。ちなみにフランス国民におけるムスリムの割合は6-7%であり、残りの殆どがカトリック教徒だ。ライシテが「正義」であるという価値観によって少数派の弾圧が正当化されていると見ることもできる。

また、悲しいことに、カトリックが多い地域ほどデモへの参加者が多かったというデータもある。ライシテという名目で「正義」を掲げながらも、本当の気持ちはただの反イスラームなのではないかと疑ってしまう。

かつての少数派が多数派となり、また新たな少数派を弾圧するという構図。現代のライシテは19世紀のカトリックとどこか重なって見える。

 

もちろん、カトリックを公の場で禁止したようにライシテを撤廃する訳にはいかないだろう。その行く先には増え続けるムスリムが多数派になり少数派となったカトリックを弾圧する未来が見えているからである。

そもそもフランスはカトリックの国でありライシテという権利を勝ち取った市民の国であるから、「よそ者」のためにみすみすその権利を放棄したくない気持ちは理解できる。

 

しかしこのままでは少数派が多数派に弾圧されるという構図が変わらない。ライシテも、ムスリムの権利も、どちらも守ることはできないか。

二者の原則は矛盾している。矛盾しているものが共存するにはお互いの妥協が不可欠である。最低限度のイスラーム的振る舞いのみ許容することが現実的な解決策となり、全ての弱者たり得る人々の権利を保障することに繋がるのではないだろうか。

他者理解

レヴィナスによると「他者を理解すること」は「他者の中に自分と似た点を探し気持ちや考え方を想像すること」ではなく「他者の、自分とは異なる背景・思考(他者性)を尊重すること」である。日本で他者理解といえば前者の文脈で語られることが多い(いじめられている人の気持ちになって考えなさい、等)が、そのことは社会に段々と同調圧力(似た点がある人が味方であるという考えに至る)をもたらし、やがて行きつくところには人は「他者に自分を見る」のではなく、もはや「自分に他者を見る(他人の表面的な振る舞い、趣味、嗜好、思考に自分のそれを擦り合わせる)」状態になる。今の社会の自己と他者の境界の曖昧さはそこから来ているような気がする。我々はもう一度他者とどう関わっていくか見直すべきではないか

RED ヒトラーのデザイン

読了

ナチスドイツの妖しい魅力をデザインの観点からとても分かりやすく説明してくれた。当時最先端であったモダニズムに沿った、それでいて伝統を感じさせる魅力的な建築や意匠、シンプルで洗練されたハーケンクロイツ(右卍)、それらを常に国民の目に触れさせることで陶酔感、"めまい"を起こさせる。国民の頭の中を空っぽにし、命令に従わせる(従うから勘弁してくれという気持ちにさせる)のだ。

強制収容所ユダヤ人をガス室に送る際にシャワー室だと騙していたというエピソードは有名だが、入浴代のコインを渡し、入り口の近くでは入浴後に飲むためのコーヒーの匂いを漂わせることまでして騙していたというのには驚いた。どれだけ国民がめまいを起こしていたのかが窺える。

 

自分の頭の中も知らず知らずに空っぽにされていないか このスマートフォンを見ながらそう考えている

本当にわかる言語学 佐久間淳一著

しばらく前に読了

私たちは無限の事象を有限の述語によって説明するために似た事象を概念化しているということを再認識した。

昔ブログでそのようなことを書いたのを思い出した。http://k-98y.hatenablog.com/entry/2016/01/26/223447

 

ちなみにこの本の内容では昔の日本語ではハ行の発音はパ行であったという説が一番の衝撃だった。確かにhの濁音はbではない。言われてみればbの清音はpである。これまで生きてきて何故気がつかなかったのだろう?先入観とは恐ろしいものである。

きっと他にも様々な思考が使用言語によって捻じ曲げられているに違いない

感情、思考と言語

どんな感情を抱いても日本語で思考している以上、自分がある感情を認識した瞬間にそれは既存の言葉で説明されている訳だけど、それは以前に誰かが同じ感情を抱き言葉にしてくれたからなのか、それとも自分の感情はオリジナルだけども言葉に記号化して伝わるようにしているのか、がとても気になっている

 
そしてもう1つ気になっているのが、どちらにせよ自分は日本語に存在する概念の中で既存の言葉の組み合わせでしか思考したり感情を抱いたりができないのではないかという事
 
追記2つ、1つは言語自体の曖昧さについて、もう1つは感情と思考の違いについて
 
まず言語自体の曖昧さについては、言葉の意味は最初に考えたよりも厳格ではなくて、自分自身が抱いた独自の感情をその言葉の曖昧な部分に含ませる事によって思考を言語化し共有できている
 
感情と思考の違いについては、感情が今述べたように感情→言語化の順で進む事から言語にとらわれず感情を抱く事ができるのに対して、思考については言語を前提として考えを進めていくため言語に存在しない概念について思考する事ができない、いわばアナログとデジタルのような違いを持っている
もったいないという言葉がなければもったいないとは考えられないもんね
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