吉田K

98Y

夏目漱石 「こゝろ」 Kの自殺 考察

こゝろ」とは

こゝろ」は夏目漱石による長編小説として「坊ちゃん」と並び非常に有名な作品であり、上中下の三部のうち「下・先生と遺書」は高校国語の教材にもなっている。かく言う私もこの作品と出会ったのは高校生のころの国語の授業であり、当時その内容に衝撃を受けたことを今でも覚えている。特に記憶に残っているのはもちろん終盤の、下の主人公である「先生」がKの自殺現場を目撃する場面だ。自ら死を選んだKを見た瞬間彼は自分がしたことの恐ろしさ、罪深さに気が付き、どれだけ月日が経とうとその傷は癒えることがなく、やがて長い年月を経て彼もまた自ら死を選ぶのだ(遺書には「殉死」と表現されている)。しかしKが自殺した原因は、本当に彼に裏切られたことであったのか?この章の回想場面は、先生の遺書という体を取っていることから常に先生の視点によって描かれている。よって、Kの性格や思想、当時の感情は彼の目を通してしか伺い知ることができない。しかしその中に描かれた数少ない情報の中から、私はKの自殺には別の原因があったのではないかという考えに至った。これより本文の引用を挟みつつ、その謎に迫っていく。


 

何がKを自殺させたのか?

まずは先生が考えるKの自殺の原因を確認しておこう。彼の考えは本文の以下の一節に端的に表れている。

「済みません。私が悪かったのです。あなたにもお嬢さんにも済まない事になりました」(夏目漱石こゝろ」四十九)

これは彼が奥さんに向けて言った言葉であるが、この一言からKの自殺は自らに原因があると考えていることが分かる。先生の言葉に出てくるお嬢さんとは彼の妻となる女性のことである。生前Kは彼女に対し恋心を抱いていた。徐々にお嬢さんとの仲を深めていくKに対し嫉妬した先生は、彼に内緒で奥さんにお嬢さんと結婚する旨を伝えてしまう。その裏切りが原因となって彼は自殺したと先生は考えたのである。
 それでは次に本文中の客観的なKの描写から自殺の原因を考えていく。彼が自殺した原因は本当に先生の考えた通りだったのか、疑いたくなる一節がKの書いた手紙に書かれている。以下に手紙の内容を引用する。

「手紙の内容は簡単でした。そうしてむしろ抽象的でした。自分は薄志弱行で到底行先の望みがないから、自殺するというだけなのです。それから今まで私に世話になった礼が、ごくあっさりとした文句でその後に付け加えてありました。(中略)必要な事はみんな一口ずつ書いてある中にお嬢さんの名前だけはどこにも見えません。私はしまいまで読んで、すぐKがわざと回避したのだという事に気が付きました。しかし私のもっとも痛切に感じたのは、最後に墨の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句でした。」(同上、四十八)

気になる点はいくつかある。まず一つ目は、「薄志弱行」とは何を意味するのかということだ。四字熟語としては「意思が弱く決断力や行動力がない」ということを意味するから、続く文章「到底行く先の望みがない」が先生の解釈通り「お嬢さんとの恋に未来がない」という内容であるならば、最初の一文は「自分は先にお嬢さんに告白できずに先生に奪われたから自殺するという意味になる。しかしその解釈では矛盾が生じてしまう。なぜならその次の一文にはお嬢さんを奪ったはずの先生への感謝が述べられているからである。恋に破れて自殺する人間が果たして恋敵に感謝を述べるだろうか? 先生の解釈通りにこの手紙を読もうとすると、大変不自然な内容になってしまうのである。


ここで、手紙には「必要な事はみんな一口ずつ書いてある」のだから、お嬢さんについての記述のみ一切ないことは明らかに不自然である。よってお嬢さんへの恋が何らかの形でKの自殺の原因に関係していることは疑いようがない。そして先生の裏切りが原因ではないとすると、本当の原因はいったい何であったのだろうか。ここで私はKの信念に注目した。

「Kは昔から精進という言葉が好きでした。私はその言葉の中に、禁欲という意味も籠もっているのだろうと解釈していました。しかし後で実際を聞いて見ると、それよりもまだ厳重な意味が含まれているので、私は驚きました。」(同上、四十一)

この文章には、「精進」が意味する「実際」を聞いた先生が驚いたとある。欲望を理性で抑える事より厳しいとなれば、おそらくKのいう精進が意味するのは「そもそも欲望を抱かない」ということで間違いないだろう。しかし実際には彼はお嬢さんに対し恋心を抱いてしまった。この時点で心の内には相当の葛藤が生まれていたと推察できる。しかしそのような状態の彼に、告白するか迷っているのだと勘違いした先生は、平生の主張と異なるではないかと厳しい言葉を浴びせる。そして私が特に注目したのはそれに対しての返答である。この一言がKの自殺の原因を物語っているのだ。

「「覚悟、――覚悟ならない事もない」と付け加えました。彼の調子は独言のようでした。また夢の中の言葉のようでした。」(同上、四十二)

先生はこの覚悟を告白についてだと捉えたが、実際のところKはそんなことを考えていたのではなかった。彼はただ、「精進」を取るか、自分の気持ちを取るかを考えていたのであり、覚悟とは前者を取る覚悟であったのだろう。もちろんすぐに「精進」が自殺を意味したわけではなかっただろうが、そちらを選んでもお嬢さんへの恋心を忘れられない現実にKは苦悩し、死を考え始めた。このことは四十三章に、Kが深夜自殺を考えていたかのような描写があることからも確認できる。そして、先生とお嬢さんが結婚することを聞いたときには、精進を選択したはずのKの胸に再びお嬢さんへの強い感情が起こったはずだ。手紙の「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろう」という一文からは、その感情が起こるくらいなら先に潔く精進のための死を選んでおけばよかった、という気持ちが伝わってくる。そして精進という自分の信念を守ることができなかったKは、「薄志弱行で到底行先の望みがないから、自殺」してしまったのである。


「下・先生と遺書」は先生の視点で描かれているから、一見Kの自殺の原因は先生の考える通りだと思われがちであるが、しかし実際にはそれと矛盾するような、Kの信念に関する様々な描写がなされている。Kの自殺の原因はやはり別なことにあったのだ。そしてその原因とはKが、恋から「精進」という信念を守り切れなかったことであった。

 


結論

つまり、Kの自殺の原因は先生の裏切りではなく、Kの、自分自身の「こゝろ」への裏切りだったのである。

表象と実態のずれ

ポストフォーディズム社会では実態が常に評価される。その評価は監査され、名声を広める(または落とす)のに用いられる。よって本質的に目標を果たすために行動するのではなく、目標を果たしているように表象(アピール)することを目標とするようになる。この連関は個人においても会社においても公的機関においても同様である。彼らは全員、表象と実態が乖離していることは知っているが、皆(想像上の他人)は知らないはずであるから言ってはならない、と了解している。

よって他人が知らないはずであるという前提が崩れた時(具体的には、誰かが公の場でそれを口に出した時など)、その実態なき表象は一気に崩壊する(実は社会主義の崩壊もまさにこのような流れで起こったものである)。

A・コント

コントは社会学の祖とされている人物である。

彼は1789年のフランス革命と、ヨーロッパにおける産業革命を社会変動・伝統の崩壊の発端とみなし、宗教によって人間の行動を説明することには限界があると考え、代わりにそれを科学で説明しようとした[実証哲学講義]。これが社会学(当時は社会物理学)の始まりであり、社会学は社会静学(社会構造論)、社会動学(社会変動論)に分けられる。

 

 

ライシテという「正義」

フランスではライシテと呼ばれる政教分離主義が採用されている。これによって公の場では十字架を飾るなどの行為は禁止される。

これは19世紀にフランスの支配者であったカトリックから独立した政治・文化を確立しようと当時のフランス市民が勝ち取った、宗教に支配されない権利だ。フランスではカトリックに代わりライシテが包括的な価値体系として共有されている。

 

現代のフランスにおいても、ライシテは重要なものとして国民に浸透している。

記憶に新しいのは、イスラームに対して政教分離を守ることを求めるために行われた大規模デモである。しかしイスラームは厳格な政教一致の宗教であり、その戒律を破ることを求めたライシテの運動には、社会の少数派に対する弾圧の側面もある。ちなみにフランス国民におけるムスリムの割合は6-7%であり、残りの殆どがカトリック教徒だ。ライシテが「正義」であるという価値観によって少数派の弾圧が正当化されていると見ることもできる。

また、悲しいことに、カトリックが多い地域ほどデモへの参加者が多かったというデータもある。ライシテという名目で「正義」を掲げながらも、本当の気持ちはただの反イスラームなのではないかと疑ってしまう。

かつての少数派が多数派となり、また新たな少数派を弾圧するという構図。現代のライシテは19世紀のカトリックとどこか重なって見える。

 

もちろん、カトリックを公の場で禁止したようにライシテを撤廃する訳にはいかないだろう。その行く先には増え続けるムスリムが多数派になり少数派となったカトリックを弾圧する未来が見えているからである。

そもそもフランスはカトリックの国でありライシテという権利を勝ち取った市民の国であるから、「よそ者」のためにみすみすその権利を放棄したくない気持ちは理解できる。

 

しかしこのままでは少数派が多数派に弾圧されるという構図が変わらない。ライシテも、ムスリムの権利も、どちらも守ることはできないか。

二者の原則は矛盾している。矛盾しているものが共存するにはお互いの妥協が不可欠である。最低限度のイスラーム的振る舞いのみ許容することが現実的な解決策となり、全ての弱者たり得る人々の権利を保障することに繋がるのではないだろうか。

他者理解

レヴィナスによると「他者を理解すること」は「他者の中に自分と似た点を探し気持ちや考え方を想像すること」ではなく「他者の、自分とは異なる背景・思考(他者性)を尊重すること」である。日本で他者理解といえば前者の文脈で語られることが多い(いじめられている人の気持ちになって考えなさい、等)が、そのことは社会に段々と同調圧力(似た点がある人が味方であるという考えに至る)をもたらし、やがて行きつくところには人は「他者に自分を見る」のではなく、もはや「自分に他者を見る(他人の表面的な振る舞い、趣味、嗜好、思考に自分のそれを擦り合わせる)」状態になる。今の社会の自己と他者の境界の曖昧さはそこから来ているような気がする。我々はもう一度他者とどう関わっていくか見直すべきではないか

RED ヒトラーのデザイン

読了

ナチスドイツの妖しい魅力をデザインの観点からとても分かりやすく説明してくれた。当時最先端であったモダニズムに沿った、それでいて伝統を感じさせる魅力的な建築や意匠、シンプルで洗練されたハーケンクロイツ(右卍)、それらを常に国民の目に触れさせることで陶酔感、"めまい"を起こさせる。国民の頭の中を空っぽにし、命令に従わせる(従うから勘弁してくれという気持ちにさせる)のだ。

強制収容所ユダヤ人をガス室に送る際にシャワー室だと騙していたというエピソードは有名だが、入浴代のコインを渡し、入り口の近くでは入浴後に飲むためのコーヒーの匂いを漂わせることまでして騙していたというのには驚いた。どれだけ国民がめまいを起こしていたのかが窺える。

 

自分の頭の中も知らず知らずに空っぽにされていないか このスマートフォンを見ながらそう考えている

本当にわかる言語学 佐久間淳一著

しばらく前に読了

私たちは無限の事象を有限の述語によって説明するために似た事象を概念化しているということを再認識した。

昔ブログでそのようなことを書いたのを思い出した。http://k-98y.hatenablog.com/entry/2016/01/26/223447

 

ちなみにこの本の内容では昔の日本語ではハ行の発音はパ行であったという説が一番の衝撃だった。確かにhの濁音はbではない。言われてみればbの清音はpである。これまで生きてきて何故気がつかなかったのだろう?先入観とは恐ろしいものである。

きっと他にも様々な思考が使用言語によって捻じ曲げられているに違いない