吉田K

98Y

感情、思考と言語

どんな感情を抱いても日本語で思考している以上、自分がある感情を認識した瞬間にそれは既存の言葉で説明されている訳だけど、それは以前に誰かが同じ感情を抱き言葉にしてくれたからなのか、それとも自分の感情はオリジナルだけども言葉に記号化して伝わるようにしているのか、がとても気になっている

 
そしてもう1つ気になっているのが、どちらにせよ自分は日本語に存在する概念の中で既存の言葉の組み合わせでしか思考したり感情を抱いたりができないのではないかという事
 
追記2つ、1つは言語自体の曖昧さについて、もう1つは感情と思考の違いについて
 
まず言語自体の曖昧さについては、言葉の意味は最初に考えたよりも厳格ではなくて、自分自身が抱いた独自の感情をその言葉の曖昧な部分に含ませる事によって思考を言語化し共有できている
 
感情と思考の違いについては、感情が今述べたように感情→言語化の順で進む事から言語にとらわれず感情を抱く事ができるのに対して、思考については言語を前提として考えを進めていくため言語に存在しない概念について思考する事ができない、いわばアナログとデジタルのような違いを持っている
もったいないという言葉がなければもったいないとは考えられないもんね
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別れの挨拶

「さよなら」「またね」

どちらも別れの際に広く用いられている挨拶だが、その二つの言葉には微妙なニュアンスの違いがある。

 

「さよなら」が意味するのは単純な別れである。相手と再会する意思は含意されていない。

一方「またね」は「また」という表現に再会が示唆されている。この言葉を省略せずに記述すれば「また会おうね」「また今度ね」とでもなるだろう。この言葉にはそれだけの思いが込められている。

 

英語にも似た関係性を持つ言葉がある。「Bye」と「See you」である。「Bye」は「さよなら」と、「See you」は「またね」とそれぞれ対応している。異なる言語でも同様の表現があるということは、別れ際に再会を願うのは全世界共通だということか。